時は金なり、人生はサーカスなり

医療職だったライター、副業で生きてる 徒然なる本音をずらり

【雑記】単なる疑問を書き連ねて、私がやりたいことを考えてみた。

 

こんにちは、白嶋(@idol22ws)です。

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先日、キングコング西野さんの「革命のファンファーレ」を読んで、自分なりに考えさせられる部分がありました。

絵本「えんとつ町のプペル」で、これまでの絵本と大きく変わった点は、作り方を“超分業制” にしたということ。

一人で黙々と作業をしていて、「そういえば、どうして一人で絵本を作っているのだろう?」と思ったことが全ての始まり。

(本文より引用)

この疑問から、「絵本は部数が売れないから、他に人を雇えず、一人で作業するしかない」という結論に至った西野さんは、クラウドファンディングでお金を集め、絵本での分業制を成功させました。

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なるほど~!(*´▽`*)
と思った私は、いくらくだらなくてもいいから、疑問を寄せ集めてみました。

 

 

学生の頃は、疑問を行動に移していた話

専門学校に通っていた時代、私は文化祭で「新企画部リーダー」の座を任されたことがありました。(今思えば、相当な無茶ぶり企画)

その時私は、「なぜ各クラスでしか食べ物を出していないんだろう?普段話さない人たちと外でバーベキューでも囲めば、情報交換とかもしやすくなって学校全体も盛り上がるだろうに!」と考えて、必死に駆けずり回りました。

お肉屋さんや地元の野菜を売っているお店への直談判。
放課後は実際のお肉や野菜を現場まで自転車こいで見に行って。

何度も企画書の提出をさせられ、当日は朝5時から農家へ野菜を受け取りに行ったりしました。

 

結果は、大惨敗!!!(笑)

といっても、予算が目いっぱいあって、それを使い切った分の肉や野菜の量が多すぎて余ってしまった、というのが失敗の原因だったのですが…。

もとより、「みんな外に出てこない」というのも失敗のひとつでした。

 

今思えば、もっと日よけのテントとか、座れる場所とか作っておけばよかったなぁ…なんて。

でも、あれこそ「トライ&エラー」だったのだ、と過去の自分から今さら学びました(*´▽`*)

 

 

日々生活している中で、ふと思いつく疑問

私は本当に無知で、何にも知らないゆとりなので、こんな疑問しか日々頭に浮かびませんが…

  • どうしておじいちゃん・おばあちゃんは外に出たがるんだろう
  • 逆に、どうして若者は外に出ようとしないんだろう
  • 昔はアイスを売りにきたり、紙芝居を読みにきたりする人がいた、と聞いていたけどどうしていなくなってしまったんだろう
  • インターネット上のつながりが発達しても、拭えない寂しさはどうしたら良いのだろう
  • 現代にしか居ないように扱われる「変質者」などは、昔にもいたはずなのに、どうして今はこんなにみんな過敏なんだろう
  • 日本で1人殺されれば事件なのに、戦地で1人死んでも大したことないように、みんな捉えてしまうんだろう
  • ホームレスの人たちは生まれたときからずっと家が無かったわけじゃないのに、どうして「家を失った人」というレッテルだけであんなにも蔑まれなければいけないんだろう

よーく考えると、私の中の疑問は尽きないし、私は博識でもなんでもないのでこの疑問に答えられる方も大勢いるかと思います。

だけど、こんなくだらないような疑問の中にも、世の中を良くするヒントは隠れているのではないか、と私は思います。

 

先日、iPhoneのアプリで「全国各地の人とジョギングを楽しもう!」という名目のアプリを見かけました。

それは、全国にいるこれからジョギングをする人たちと一緒にリアルタイムでジョギングを楽しむ、というアプリなのだそうですが…。

現代の人は、「一人でいたいけど、独りにはなりたくない」という方が多いのでしょうか?

 

なぜ、イヤホンをして頭の中にしか流れない音で、孤独感を紛らわすのでしょうか。

もし、何かの拍子にジョギング仲間と出会えば、イヤホンを外して実際の車の音や風の音を聞きながら走ることができるのでしょうか。

 

きっと、答えは、一人一人の中にしかない、ってことはわかっているのですが…。

 

 

私が疑問に思うことは、「対人間」についてのことがメイン

キングコング西野さんは「仕事の分業制」についての疑問を抱きました。

しかし、私がさっき列挙した疑問はほとんど「対人間」に対する疑問。

 

もしかすると、私がやりたいことは「誰かの寂しさややりきれない感情などに手を差し出せること」なのかもしれないですね(`・ω・´)

とはいえ、私はもともと医療職、しかもリハビリの仕事に就いていました。(現在も資格はありますが、そのお仕事はしていません)

 

そのお仕事を選んだのも、「ずっと出来ていたことが出来なくなった虚しさや辛さなどを共有すること、そして一緒に前を向いて回復していけるセラピストになりたい」と思っていたからです。

まぁ、実際の現場に出ると、医療現場というのは慌ただしいもので、先輩や先生方から「愛で患者さんが救えるかよ(笑)」とバカにされたものですが…(;´・ω・)

でも、自分は間違っていたとは思いませんし、今でも再び現場に立つなら目指していたセラピスト像のまま働きたいと思っています。

 

 

現代は、みんな「さみしい」のかも

昔に比べて、人と人のつながりが希薄になってしまった現代は、みんなさみしいのかもしれませんね。

だから、おじいちゃん・おばあちゃん達は昔のように「外に出てお喋り相手を探す」という行動に出るし、若い人たちは「独りじゃないと感じるためにSNSやアプリで繋がろうとする」のかもしれない。

 

もう世の中に必要な技術や便利さは、だいたい出たのではないかと思います。

インターネットはこれ以上速くならなくてもすでに便利だし、車は空を飛ばなくてもそれなりに色んなところに行ける。もう十分だと思います。

 

今必要なのは、「体験」

きっとインターネットでも経験できない、人と人との直接的なつながり、かもしれない。

 

私はよく、いまこの瞬間から電気が使えない生活になったらどうなるのか、ということを考えます。

きっと、顔を合わせたこともないお隣さんや上の階の人たちとも話すでしょう。
火を借りたり、お風呂はどうするか相談したり、食べ物を分け合ったり、そうやって助け合わざるを得ない状況になるのではないかな、って。

 

私がやりたいことは、そんなことなのかもしれない。

でも、今は便利すぎて、お隣さんと話す必要も、助け合う必要もない。

ただ、「怪しい人じゃないかどうかだけ」確認するのみ。

 

自分がやりたいこと、世の中の役に立ちたいと思うことは、もっと構想が必要なのかもしれないですね( ˘ω˘ )

でも、考えてるだけで楽しい。これは間違いないです!!

 

皆さんも、常日頃の風景を見ながら「なぜ?」と思う疑問を書き連ねてみると、いま自分は何をしたいと思っているのか?という部分が見えてくるかもしれませんね!

では、今回はただの雑記ブログとなりましたが、閲覧ありがとうございました!